津山城Legend

井戸宇右衛門(いどうえもん)
森忠政(もりただまさ)
津山城(つやまじょう)

名護屋山三は一の槍
■戦場でめきめきと頭角を現す。
小姓になってから早速合戦に。1587年筑前・肥後(ちくぜん・ひご)の戦い(九州攻め)に
参加。そして1590年小田原攻めの一つ、韮山(にらやま)城攻略において軍功を挙げる。
そして同年、大崎・葛西(おおさき・かさい)一揆鎮圧の一つ名生(みょうう)城攻めにて
一番槍(いちばんやり)の功を立てました。
「槍仕(やりし)槍仕は多けれど名護屋山三は一の槍」
※槍仕とは
ただ槍を使っている兵という意味ではなく、プロフェッショナルな槍の使い手という意味。歌の意味はそんな槍の使い手の中でも名護屋山三郎は一番だ(一番槍だ)という意味です。
名護屋山三郎と言えば「槍の山三」。一番槍の功を立てた大崎・葛西一揆鎮圧の名生城攻めで
一躍有名になりました。1590(天正18)年、豊臣秀吉は小田原攻めに協力しなかった諸将の領地
没収を行った。この東北地方の大崎義隆(おおさきよしたか)と
葛西晴信(かさいはるのぶ)の領土では無理な検地などにより
領民が決起。大崎、葛西の旧臣も加わり大きな一揆となった。
この一揆を鎮めるべく、蒲生氏郷と伊達政宗が兵を挙げた。
同年11月、下草(しもくさ)城に氏郷と政宗が合流。軍議を開き
打ち合わせをするが、攻撃前日に政宗が今回の一揆の首謀者
であるとの密告があり、氏郷は直ちに下草城から出陣した。
政宗から高清水(たかしみず)城まで一揆勢はいないと聞かさ
れていたが名生城にて一揆勢と交戦。このままでは名生城の
一揆勢と下草城の政宗に挟み撃ちに遭うと考えた氏郷は半数
の兵を政宗を抑えるために残し、残りの半数で名生城を落とす
ため決死の突撃を開始した。
その時、名護屋山三郎は城内に一番に駆け入り、大勢の敵
を東西に追い散らし、首一つを討ち取る大活躍!この活躍
から、あの小唄が歌われるようなった。
※一番槍とは合戦にて一番最初に槍で敵を倒したものに与え
られる功名(こうみょう)手柄です。誰よりも戦場を早く
駆け、敵に囲まれる危険の高い一番槍は勇気と技量が認め
られる手柄の一つです。このときの山三郎の姿が「氏郷記」
にこのように書かれている。
・・・白綾(しらあや)に赤裏(もみうら)打ったる
具足下(ぐそくした)色々の糸を以って縅(おどし)
たる鎧を著し、小梨打(こなしうち)の冑(かぶと)
に、猩々緋 (しょうじょうひ)の陣羽織にて手槍を
掲げ・・・
そして1591年、九戸政実(くのへまさざね)の乱でも
一番槍の功を立てる。

名古屋ハ若輩の節、蒲生氏郷二仕 若名山三郎トテ美麗の器量也卜云
  伝二云、名古屋因幡守の儀ハ信長公従弟之由、~(森46P下3行)

名古屋因幡守ハ、生国尾州、父ハ織田備後守信秀
信長公の御父室の兄弟也、故二信長公トモ浅井備前守長政室信長公の御妹トモ
   因幡守ハ従弟也、京極若狭守忠高若狭小浜少将の母公浄光院二女、
   秀忠公御台宗源院様三女秀頼公の母公淀殿一女此御三人、因
   繙守ハ筋違の従弟也、~(森98P上1行)
名護屋山三郎、阿国との出会い
■出雲阿国との出会い
蒲生氏郷が死去すると氏郷氏から出て京都の四条付近で浪人
をしていました。そしてこの時同じ場所で歌舞伎の元祖とも
呼べる「ややこ踊り」が演じられていました。
そこで踊っていたのが出雲阿国(いずものおくに)です。
伝説では山三郎と出雲阿国が恋人になり、歌舞伎踊りを作り
上げたことになっています。
名護屋山三郎、阿国との別れ
■名護屋山三郎、僧侶になる。
京都で浪人生活をしていた山三郎はしばらくして大徳寺の僧侶になります。名は宗圓(そうえん)。これは
細川家の細川忠興(ほそかわただおき)の指示でした。多くの浮名を流した山三郎も僧侶になればおとなしく
なる?と思ったか定かではありませんが、しかし僧侶になっても名護屋山三郎の美しさが変わるわけではあり
ません。風紀が乱れることを心配した細川忠興は宗圓に会わないように家臣達に命令しましたが、宗圓の姿を
一目見ようと多くの者が禁を破りました。その禁を破った者の中には何と細川忠興の父、細川幽斎(ほそかわ
ゆうさい)や幽斎の異兄弟、玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)がいました。幽斎は戦国大名というだけでなく、
歌人としても有名で、茶道や文芸にも造詣が深い文化人でした。茶会を開くといっては細川家に宗圓を招待
していたのでしょう。流石の細川忠興もなかなか怒ることが出来なかったかもしれません。
そんな細川幽斎が名護屋山三郎こと宗圓を歌った詩があります。
「かしこくも 身をかへてける薄衣 錦にまさる 墨染めのそで」
「たとえ粗末な薄衣でも名護屋山三郎が着れば錦に勝る墨袖のそでに見紛う」
■森忠政の家臣になる
妹のお岩が森忠政公に嫁いだことがきっかけになり山三郎は還俗(げんぞく)し森忠政公の家臣として
仕えることになります。※還俗とは僧侶をやめて元の身分に戻ること。
★名護屋山三郎を1行で説明すると・・・

 戦国時代に美(絶世の美男子)と勇(奥州攻めで一番槍の手柄)で伝説を残した武将。

★どれだけ美形だったのか・・・

 肖像などは残っていないが「森家家臣各務氏覚書」に「名護屋山三郎殿 御かたち美男にて之れ有り」という記録がある。
 また、歌舞伎の祖といわれている出雲の阿国がかぶき者の象徴として名護屋山三郎を登場させている。

○具体的な描写として
  「氏郷記」(うじさとき)に15歳のころの戦で
「白綾(しらあや)に紅裏(もみうら)打ったる鎧下(よろいした)、色々糸縅(いろいろいとおどし)の鎧、小梨打(こなしうち)の冑(かぶと)、猩々緋 (しょうじょうひ)の陣羽織して」とある。

 白綾とは・・・白絹の綾織物のこと。
 紅裏とは・・・紅色(鮮やかな赤色)の裏地の着物のこと。
 鎧下とは・・・鎧の下に着る着物のこと。
 色々糸縅とは・・・縅(おどし)とは日本の甲冑の製造様式のことで糸縅とは絹などの糸で小さな板を組み合わせて作られた甲冑のこと。色々とはさまざまな 色の糸を使っていると思われる。
 猩々緋とは・・・赤みの強い赤紫色のこと。
 陣羽織とは・・・鎧の上から着る丈の短いベストのような上着のこと。

★津山城とどんな関係があるの・・・

 もともと津山城は現在の場所ではなく院庄という所に建設予定でした。その工事現場を訪れた名護屋山三郎はもともと仲の悪かった井戸宇右衛門に斬りかかっ たのです。これは森忠政の命令だと言われていますが名護屋山三郎も井戸宇右衛門も死んでしまいます。この事件がきっかけで津山城の場所が院庄から現在の場 所に変更になりました。

「にらみ合いの松」相関図

★もっと詳しく・・・
(Wikipediaより引用)
尾 張国(現在の名古屋市)の生まれ。名古屋高久の次男。名古屋氏は名越流北条氏の子孫といわれる。母方の縁で織田氏と縁戚であることから織田九右衛門とも名 乗った。当初は母と共に京の建仁寺に在ったが15歳の時に蒲生氏郷に見出され小姓として仕える[3]。九州征伐、小田原征伐に参加。天正18年(1590 年)の陸奥名生城攻略、天正19年(1591年)の九戸政実の乱でそれぞれ一番槍の功を立て2000石に加増される。

文禄4年(1595年)に氏郷が死去すると蒲生氏から退去。京の四条付近で浪人した後に、出家して宗圓と名乗り大徳寺に入ったが、その後しばらくして還俗 し、妹の岩が嫁いでいる森忠政の家臣として仕えた。忠政は山三郎を気に入り、見目麗しい事や茶道や和歌に関しても見識が深い事から饗応役として取り立てら れ、5000石の所領を与えた(後に5300石まで加増)。また、山三郎の妹2人が森家重臣の小沢彦八、各務正休と婚姻を結んだため、山三郎は森家中で大 きな発言力を持ったが、それを快く思わない同僚の井戸宇右衛門とは仲が悪く度々、口論など諍いを起こしたとされている。

慶長8年(1603年)、忠政は関ヶ原の戦いにおける恩賞として美作国津山藩に移封された後に新しい城を院庄に立てる事を計画。この時、山三郎は宇右衛門 を殺すように忠政より命令され、忠政から直々に刀を賜っている[4]。その後、工事現場において宇右衛門と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に抜刀して襲い 掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。宇右衛門も居合わせた森家の人間にその場で斬り殺された。享年は28[3]とも32[5]とも伝わる。

なお、嗣子の名古屋蔵人は後に森家を去り、前田利常に3000石で召し抱えられ、子孫は加賀藩士となって代々名越姓を称した。

Wikipedia のリンク
名護屋山三郎は本当にイケメンだったの?
 歴史上の人物がその後美化され、絵画・小説・映画や漫画などで
表現されるのはよくあること。では名護屋山三郎はどうなのか?
名護屋山三郎がイケメンだった史料はあるのでしょうか?
森家先代実録(もりけせんだいじつろく)より、山三郎の容姿について
書かれている文章をピックアップしてみます。
※森家先代実録とは
森忠哲(もりただあきら)、森忠敬(もりただよし)らによって作成された森家の
実績を編纂した家史。

・・ 名古屋ハ若輩の節、蒲生氏郷ニ仕
 若名山三郎トテ美麗の器量也ト云 ・
(美麗とは美しくあでやかなことだそうです。)

・・ 右山三郎ハ美男にて身上の妨ニも
成申故、うるさく思い剃髪して宗円と云、
十徳着にて細川幽斎へ行し也、幽斎

 かしこくな身をかへにけるうす衣
   錦にまさるすみそめのそて 



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