津山城Legend





森忠政
「にらみ合いの松」相関図
森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃国川中島藩主、後に美作国津山藩の初代藩主。

家系
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れ。八幡太郎義家の四世孫・森伊豆守頼定を祖とする。

系譜
森判官代頼定 - 森二郎定氏 - 森二郎太郎頼氏 - 森七郎光氏 - 森伊豆守氏清 - 森左近大夫頼俊 - 森左京亮頼師 - 森二郎太郎頼長-森七郎右衛門尉頼継 - 森二郎可光 - 森越後守可房 - 森越後守可秀 - 森越後守可行 - 森三左衛門可成 - 森武蔵守長可=森左近衛中将忠政
ただし、この系譜は仮冒という説もある。

生涯
津山入り後
無事に美作入りを果たした忠政であったが、新たな居城の建築場所を巡って以前より関係の悪化していた重臣・井戸宇右衛門との対立が表面化。忠政は同年5月 に院庄の工事現場にて名古屋山三郎に井戸の殺害を命じ、宇右衛門の2人の弟も刺客を放ち暗殺し、井戸一族を抹殺した。しかしながらこの一件により筆頭家老 の林為忠を初めとする林一門が森家を出奔するという事態に陥る。二頭体制の一角であった各務元正も既に亡く、これにより筆頭家老の座には若い各務元峯(元 正の嫡男)が就く事になった。

慶長9年(1604年)には伴直次を総奉行とし領内の検地を実施。また、前年の事件により止まっていた城の建築予定地を院庄から鶴山の地に変更。地名を鶴 山から『津山』へと改め、城の建築を再開した。これが津山城である。また、築城に際して荒廃していた大聖寺の再建にも努めた。

しばらくは家政も安定していたが、慶長13年(1608年)に石切場で筆頭家老である各務元峯が喧嘩の末に家老の小沢彦八を殺害。また仲裁に入った家老・ 細野左兵衛も元峯の家臣によって斬り殺されるという事件が起こる。折悪く忠政は参勤交代の為に江戸に居たが、この事件は大塚丹後守の裁量によって家中騒動 などの大事には至らなかった。しかしながら忠政はこの有様に激怒し3家老の所領を召し上げた。この後、しばらくは大塚丹後守がまとめ役となったがその大塚 も慶長17年(1612年)7月に死去。

こうした事から忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、江戸幕府旗本となっていた叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望。幕府もこれを認め忠政は可政に 5,000石の所領と執政職の権限、更には従弟で可政の4男可春にも3,000石の所領を与え、可政らの津山入りの際には自ら国境付近まで出迎えに赴くな ど厚くもてなした。以後、家中での不祥事と言えるような出来事は収束する。


※Wikipediaより


Copyright(C) 2014 津山城Legendプロジェクト. All Rights Reserved.